柏市大井にある大杉のお寺


妙照寺は、千葉県柏市大井(旧沼南町)にあります日蓮宗のお寺です。山号は「長国山」です。

妙照寺のある旧沼南町の大井地区は、北に手賀沼を配し、四季を通じて自然がいっぱいの地区です。

妙照寺には柏市の天然記念物に指定されている大杉の木があります。幹周り約6mの大杉で、その上にはわらのしめ縄をした御神木であります。

手賀沼の周りには、由緒正しい寺社、そして史跡がありますので、手賀沼散歩のついでにぜひご参拝ください。

妙照寺

住職 瀬川日照(現在京都本山本法寺に晋山中)

副住職 瀬川観常


當山の歴史


妙照寺は平安時代の弘仁年中(810年頃)に建立された真言宗の寺院でありました。

開山は日蓮大聖人の直弟子で中老僧の越後阿闍梨日辨上人とされています。

日辨上人は、元は真言宗の僧でありましたが、37歳の時に、身延山に赴き、日蓮大聖人と法華真言勝劣の法論をして敗れ、大聖人に深く帰依し弟子となりました。

その後、大聖人より常奥羽三国弘通を命ぜられ、布教の旅に出られ、正応元年(1228年) の頃、大井の御堂と称せられた真言宗の寺を改宗せしめて、光雲山 妙照寺となりました。

そして寺務を弟の日忍上人に勤めさせ、多くの寺院を建立しましたが、応長元年73歳の時、 あまりにも激しい布教方の為、奥州で暴徒に襲われ殉職されました。

日辨上人の布教は、法華受持者の精神である、死身弘法、折伏逆化の如説実践者であり、また幕府に諫言や進上などを行い、獅子王の如き伝道の一生であったそうでございます。

本堂は明暦年間に間口十間、奥行八間の銅葺きの唐破風造の大伽羅でしたが、三百余年を経過し荒廃甚だしく、寺院設計の権威者、故 廣江文彦先生の意を得て昭和45年11月に再建し現在に及んでおります。

當山御開山越後阿闍梨日辨上人像


日蓮聖人伝


貞応元年(1222年)2月16日安房の國(千葉県勝浦市)小湊に漁師の子として誕生致しました。

聖人は幼少の頃から学問を好み、12歳の時清澄寺に登り出家・得度され道善房に師事し蓮長と名づけられました。

間もなく仏法・世法について疑問を生じ、これを解決するために清澄寺の本尊であった虚空藏菩薩に日本第一の知恵を授けたまえと願掛けをされました。

満願の日、知恵の宝珠を授かったことを感得し、以来諸経、諸宗の奥義を得て更に 鎌倉・京都・比叡山などを遊学し、岩本(静岡)の実相寺で一切経を読破し研鑽の結果、末法の人々を救い、この世を仏国土たらしめるのは法華経以外に教えはないことを発見しました。

かくて建長5年(1253年)名を日蓮と改め、故郷・清澄寺に帰り、4月28日旭森の山頂に立ち、 登り来る旭に向かって南無妙法蓮華経と玄題十唱・法界に向かって立教開宗を宣言されました。

その後、鎌倉に出て法華経を弘める為、辻説法を続け、念仏信徒だった時の鎌倉幕府の迫害を受け、 度重なる法難に命を落としそうになる危機をいくども乗り越え建長8年鎌倉幕府に対し、立正安国論を三度に渡って献進したが受け入れられませんでした。

「三度諌めて用いざれば国を去れ」という古の賢人の戒めにまかせ、鎌倉を去り身延山に入られました。

これより9年の間、昼は閑を止めて、夜は眠りを断って法華経を読誦し弟子の育成にあたりました。

弘安5年(1283年)体調を崩し、温暖の地で湯治をすすめられ寒さきびしい身延を出て常陸の国へ向かう途中、池上宗仲の館(大田区・池上)に入られましたが、そこで臨終が近いことを悟られた聖人はここを入寂の地と定め、本弟子6人を定め(六老僧)滅後の法灯をたくし10月13日門下 読経のうち辰の時(8時)寂然として遷化されました。61歳でありました。

遺言により遺骨は身延に埋葬されました。

入寂の時、季節外れの桜が咲いたことから、御会式(日蓮大聖人の御法要)には桜の花を模した万燈が纏、団扇太鼓とともに大聖人供養の為、練り歩きます。立教開宗より750有余年、日蓮宗は法灯を継承し現代に至ります。